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「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」 を観て

今回は映画「バードマン」について。

感想については以下のネットラジオで話したので、今回は「バードマン」と自分、というかこの映画に関しての自分周りの出来事や感じた事について書きたいと思います。



第55回 味な与太ラジオ シネマバスラー | 味な与太ラジオ 


この映画を知ったのは菊地成孔さんがブログで絶賛していたのがキッカケ。

まだ公開前でしたが、試写を観た菊地さんの書いた短い感想は、読んでいるこちらにも感動や感情の起伏が伝わってくるものでした。

しかし何か作品と向き合うに辺り、他者の評価、特に自分に大きな影響を与えている人物の評価を事前に知るのはある意味その作品への視野を狭めかねません。

例えば「タマフル」を聴いていれば自然に宇多丸さんの事を好きになるし、尊敬の念も湧くでしょう。

そして彼のファンになってしまう事により、「宇多さんが褒めてたから。」とか逆に「宇多さんが酷評していたから。」という色眼鏡で観てしまいます。

勿論いくら色眼鏡を通した所で人間好みも感受性も違いますから、必ず評価が一致する訳ではありません。

そして僕の場合は「尊敬するあの人と同じ評価にならないから嫌だ!」とか言う事ではなく、「あの人と同じ位楽しめなかった。」という事態に陥るのがイヤなのです。

単純な好みや感性が合わないのは当たり前なのですが、教養や知識の差で面白みやメッセージ性を受けきれないのはやるせません。

そんな心配の中「バードマン」を観ました。

バードマンを観て



上のネットラジオで話しましたが、単純に面白く、雰囲気、役者、音楽。全てが素晴らしく惹き込まれました。

ただこのバードマンという映画はパッと見の大衆向けコメディという一面の裏側には多くのメッセージ性が含まれております。(勿論映画なら多かれ少なかれ有るでしょうが。)

そして特にラストシーンはどうにでも解釈出来る様に描かれております。

まず躓いたのがこのラスト。

一度観た自分はネット等で色々な解釈を観る中で「あ、そうだったのか!」と自己的な解釈とは違う答えを見つけ、なんだかこのままでは気持ち悪いなと思ってもう一度観に行きました。

2度目を観終えて



新たな解釈を手に入れ、意気揚々と2度目の鑑賞に。(同じ映画を2度映画館に観に行くのは初めてでした。)

小沢健二ばりに財布を忘れ、回り回って1度目より大分大きな映画館での鑑賞に。

さあ、2回目という事で1度目より細かい点も観れるし、不覚にも1度目数分寝落ちてしまった場面もバッチリ観れました。

ラストも新たな解釈を当てはめ鑑賞終了。

曇り空だったのですが、映画館を出るとスカッと晴れ渡った空。

その勢いでiTunesにてサントラを購入。

しかし、人々が「何か」について語り合うのが好きな自分はまた個々の感想や意見が綴られたブログ等を見回る訳です。

その中でまたしても僕の解釈を逆転するものを発見!

しかもそのブログは限りなく細く、理論的にロジックを並べ映画の解説をしているじゃないですか!

「この部分とこの部分にはこんなメッセージが。」

「こちらとこちらにはこんなメッセージが。」としっかりと作者側が示したいメッセージが羅列されております。

勿論これとて一個人の見解では有りますが、とても説得力が有り、赤子でも飲み込めるくらい咀嚼された解説には感動さえ覚えました。

そして、映画評とはここいうものなのか!と深く胸を打たれました。

こうして最終的な捉え方を自分なりに見つけた訳ですが、ある提示版で見た1シーンへのコメントがどうしても気になる!

それは一瞬のシーンの小さな描写なのだが、「あれは◯◯って事を暗示しているんじゃないのか!」という一言が気になってしょうがない。

まあ、そのシーンについて触れている意見自体が他には見あたらないので、気にしなくても良いのかなと思ったが、どうしてもスッキリしないのでまさかの再チャレンジ!

3度目を観終えて



流石に3度目ともなると余裕が。

気になる所は事前に構え、細かくチェック出来ました。

ただ、問題のシーンはやはり短過ぎる事もありよく分からぬまま。

ただ、それだけ目立たせてないし誰も言及しないのであれば気にする事はないのだろう。という結論に。

まあDVDでも出てもっと観た人が増えたら色々話してみたいものです。

菊地さんによる解説



遂に菊地さんの批評文を読む事が出来ました。

綿密に言うと、バードマンの音楽を担当したアントニオサンチェス氏の来日イベントでの映画の解説文です。

批評の完全文は後程書くらしいですが、この解説文だけで僕の求めていた事はほぼ書かれていました。

結論から言うと、「きっとあのラストはこうだ!」とか、「あのシーンは幻覚だ!」とか考えてた事事態がナンセンスだったなと感じました。

菊地さんはこの様に書いてます。

いわゆるネタバレになりますが、ラスト、主人公が本当に空を飛んだのか、主人公は自殺したのか、その決定的な表現を、本作は決然と避けています。  通常は、そういった曖昧さは回避されるべき、もしくは百歩譲って「見た者一人一人が決めれば良い」という事になりがちですが、本作の真の価値は、見終わった後に、一人一人が「決めなくても」良い。つまり、そういう事はどうでも良いのだ、リアルとアンリアルというのは、重要な問題だが、巷間描かれる程簡単な事ではないし、豊かな中間領域がある。重要なのはそこではない。と思わせしめる所です。


なんというか、基本的に何か自分的な解決や合点がいかないと気が済まない主義だった自分のハートに風穴が空いた様な気分でした。

基本的には映画に限らずアーティスティックな作品はなんでも最終的には受け取る側の自由でしょう。

そしてその先には「これ!と決めつけない。」という更に豊かな領域も有るんだなと感じました。

色々考察して語るのも面白いけど、ただただ為すがままに物語に乗って浮遊するかの様に楽しむのもまた良いのだなと。

やはり事前情報が有り過ぎるのも良くないな。と思いました。

まとめ



今回色んな方の感想等を目にしてとても勉強になり、映画の見方ってとても奥深いなと感じました。

そして、長くなりますのでここでは触れませんが、菊地さんはこの映画の音楽は勿論の事、製作者を筆頭とした移民的な作品としての評価等、本当に幅広く全体を俯瞰する様に脱帽し、もっともっと色んな映画を観たいな!と改めて思いました。

ただ、これからも映画を観るにあたって自分の前にはとてつもなく大きな強敵が立ち塞がります。

それは【映画を目の前にすると睡魔が襲ってくる病】です。

これは思い返すと小学生の時からの付き合いです。

テレビの◯◯ロードショーを親戚の家で観ていても、同い年位の子供の中で自分だけがラストを待たずして寝てしまう事かよくありました。

その時はただ子供だから起きていられなかっただけかと思ってましたがよく考えたら他の子は起きていたなと。

その後高校では友達の家で映画途中に爆睡、高校卒業後は映画館で爆睡。と続きました。

ターミネーター3」を観にいった時はシュワちゃんの登場を待たずして眠ってしまい起きたらエンドロールでした。一体何を観に行ったのでしょう。笑

何かこの症状を一蹴する得策は無いでしょうか?

誰か教えてくれー!!

という訳でどうにかこの奇病と闘いながら、僕のシネマライフは続いていきそうです。